でいちゅうのはす

ワナビーの随想めいた日記のようななにか

11月14日 星乃珈琲店でパンケーキを食す

 

 

今日は街まで軽くドライブ。天気が良い。車でさっと回る分なら感染症も関係ない。そして外に出るだけで気持ちはかなり晴れるものだ。

 

新首相にならって、僕も喫茶店でパンケーキを食べるようになった。僕はお酒も飲めるし甘いものも楽しめる二刀流なのだ。ただ甘味はあまり外食をしない。おっさんが可愛いものを食べているとなんとなく外聞が悪いのと、気を抜くとロケットのように加速的に増加していく体重を気にしてだ。今日だって、店員さんに注文するときに、僕の頬は恥ずかしさに少し赤らんでいたはずだ。まあ、食べているうちに周囲の目は気にならなくなってしまったけれど・・・。

 

星乃珈琲店のパンケーキは分厚くてふわふわで、これにメープルシロップやはちみつをたっぷりかけて食べると美味しい。上に乗っているホイップバターも香りが良くて楽しめる。今は秋でモンブラン限定版もある。おすすめだ。

 

f:id:Shiomachi:20201114191611p:plainhttps://www.hoshinocoffee.com/

 

 

 

 

実は、資格試験の日程が近づいている。一通り問題集は解き終えているので、いまはテキストを流し読みしている。年をとって頭がさらに悪くなってきたように思う。なにより集中することが難しくなってきた。衰えというのは誰にでもやってくるものなのだなと、葉の色がすっかり変わった街路樹のトンネルを思い出しながら、当たり前の感慨を持つ。

 

 甘味を食べると、糖分のおかげか頭が少しばかり働くような気がするし、精神が落ち着き、あるいは回復する。なので試験勉強にはもってこいのアイテムではあるのだが、いかんせん「太る」「体重が増える」というデメリットがある。

 

甘味だけでなく、頭を活性化させるカフェインやニコチンなどは、体にダメージがあるものばかりだ。特に加齢とともに体に残るダメージ量が増えていく。頭を活性化させる必要がある機会は増えるのに、活性化アイテムの使用が制限されてしまうとは。

 

人生がゲームだとするなら、ゲームの後半は加齢による肉体的な制約が増えて、ハードモードになるということになる。

 

なるほど、自分で書いていることだけど、書きながら知見を得ることができた。

 

人生は後半になるほど難易度があがって活性化アイテムも反動が出て使いにくくなるので、人生の前半、若いうちに多少無理をしてでも力をつけておく必要があるということだ。

 

今回のケースで言うなら、勉強をするための脳のちから、純粋な知力、あるいは勉強をしなくても済むような財力、社会的地位の構築だろうか。

 

 

 

まあそれはそれ。説法じみた話はこれくらいにしておいて、パンケーキを食べることは単純に娯楽だ。ふわっふわのパンケーキ、香り高いホイップバター、たっぷりのメープルシロップ。食べに行ける自分への言い訳を見つけて、また食べに行きたいものだ。

 

 

 

 

11月13日 認め印廃止の報道

 

冬が近づき、乾燥が激しい。今年は冷たく乾いた冬になりそうだ。

 

こうした気候はインフルエンザが流行りやすい。ということはコロナも流行りやすいということになるので心配ではある。つい先日、ファイザーの対コロナワクチンが90%以上有効だという報道が出たけれども、日本にワクチンが行き渡るのは来年の上期6月だ。今年の冬は、コロナの感染話が盛り上がる冬になるだろう。もちろん自身も感染対策に充分に気を配らねばならないだろう。

 

 

これも報道の話だけれど、河野行革大臣が、役所の提出書類に認め印をなくす方針を打ち出した。これで2万弱種類の書類から認め印が無くなるのだという。認め印がなくなれば、書類のオンライン申請が可能になるという発言もあり、次のことを見据えた動きでまことに頼もしい。

 

いま役所の申請は、先進的なところでも、ホームページで書式がダウンロードできるぐらいのものだ。これをプリンタで印刷(笑)して、必要事項を記入、認め印を押して郵送する手続きになる。行政サービスの受け手である送り手の我々の負担も大きいが、紙で書類を受け取り、内容を確認し、台帳化していく行政側の負担も大きいだろう。

 

そもそも今の家庭にプリンタがあるのか。無い世帯も多いのではないだろうか。ちなみに我が家にはない。昔はあった。

 

今は、コンビニでプリントできるネットワークプリントサービスというものがあるのでそちらを使っている。わずかな年賀状は外部印刷サービスで購入している。他に印刷が必要になる用事は、年に1度か2度程度のものだ。これだけのために、個人用のプリンタを購入するのはちょっとためらう。他の人も同じではないだろうか。きっと同じく購入するのでも、たこ焼き器のほうが出番が多いような気がする。

 

たこ焼き機だってほら、必ずしもたこを使わなくてもいい。餅を入れても生姜と天かすを入れても美味しいものができるのだし。

 

思えば役所書類に認め印が必要だったけれど、あれも別に必要なわけでもない。たこ焼きのタコと同じで、他のものに置き換えが可能なものだったのだ。その別なものが、署名になるのか、マイナンバーカードの番号になるのかはわからないけれど、書類仕事というものは付加価値をあまり産まない作業なので、できる限り合理的で手間がかからないのがいい。

 

書きながら思いついたけれど、行政書類に、マイナンバーカードの番号かパスポート番号を書くようにすれば、行政データベースにもつながるし合理的な気がする。知らんけど。

 

 

なんにしろ意味のない認め印が無くなるのは良いことだ。時代と技術に合わせて、制度も合理的に変わっていく必要がある。

 

ハンコ業界が苦戦するという話もあるけれど、今更なことだ。

 

TVだってブラウン管からLEDに置き換わり、かつて国内で生産していた衣類やプラスチック製品は軒並み海外からの輸入に置き換わり、写真だってフィルム産業がまるごと壊滅しデジカメ、ひいてはスマートフォンに置き換わった。いま、巨大産業である車だってエンジン車からEVに置き換わり、最先端のPCだってハードディスクからフラッシュメモリに変わっている。時代の恩恵を受ける、あるいは失う団体は常に入れ替わっている。それらを他山の石としきたか、対岸の火事だと傍観していたかの違いでしかない。

 

盛者必衰、驕れる者は久しからず。と、他人に言うのは簡単だけれど、怖いのは、この言葉は巡り巡って自分に降り掛かってくる可能性が、常にあるということだろう。自戒、自戒。

 

 

 

 

 

 

 

 

11月12日 へっぽこ投資家

 

 

 

一般的な日本人の枠から外れず、僕もサラリーマン。宮仕えの身だ。

 

朝7時に起きて、電車に揺られて会社まで行き、仕事という名の時間帯を過ごして、また電車に揺られて帰る。通勤だけの部分を抜き取ると、動物園の檻の中に飼われている動物とそう変わらない気がする。彼らのほうが住職近接で衣食住ーーまあ動物は服は不要だけどーー完備で、待遇は上かも知れない。

 

そう言えば、人間が多次元生物に見せ物として飼われる小説があった。ヴォネガットの小説で、たしかスローターハウス5という名前だった。

 

あれは多次元生物の教養のために「人間の交尾を見せる」という名目で、とんでもない美人の相手すらあてがわれていた。そのように考えると、動物園のたぐいの待遇は、たいがいの社会人の待遇を越えている。

 

話が跳んでしまったが、宮仕えをしながら、僕も投資というものをやっている。興味はいろいろと持っているはが、今やっているのは主に株式投資だ。

 

投資をやっていると、いつか成功して会社を辞めるのだ、という夢を持つ。特に何かのきっかけで大勝ちしたときなどは特にそうだ。夢が間近に迫っているようにも感じられる。まあだいたいそのあとに大負けして、夢から覚めるところまでがセットになっているのだけれど・・・。

 

 

今は米国大統領選の余波で、株高だ。そして、僕は残念ながらその波に乗れなかったへっぽこ投資家だ。

 

トランプかバイデンかで米国は揺れている。どちらが勝つかで上がる株の種類が違うそうだけれど、だいたい交互にあがっている感じがするので、市場がいったいどちらを支持しているのかまったくわからない。結局、どちらが勝ってもあがりそうな気はしている。

 

投票期間が終わってもバイデン支持の不正票が見つかったりして、大波に翻弄される木の葉のように米国は揺れているように見える。

 

ネットで時折流れる、トランプ支持者の集会の映像では、人の海が出来ており、映像インパクトは圧倒的な一方で、報道機関はバイデンの勝利をうたい既成事実としようとしている。

 

誰かが嘘をついているか、もしくは誰もが嘘をついている。

 

けれどそれは世の常、政治の常だ。嘘のすべてに目くじらを立てるほど、純な心はもう持っていない。いったいどこに置き忘れてきたのだろうか。飲みすぎて吐くだけ吐いたあの駅のホームだろうか。

 

ともかく、大統領選は、あと1週間くらいで落ちつくべきところに落ち着けばいい。そして僕の買った株があがれば良いのに、と思う。

 

 

■戦績 @大統領選後

ファナック +

カラダノト ー ー

フマキラー ー

 

 

 

第五番屠殺場とかいう物騒なタイトルのSF。

 

11月11日 はじまりはじまり

 

 

ふと思い立ってブログを始めることにした。

 

こんなことをする時間の余裕はないはずなのに、そういうときにむしろ新しいことを始めたくなるのは何故だろう。おそらくなんらかの逃避行動だと思われるけれど、深掘りしても明るい話題は出てこないので、これ以上は掘り下げまい。

 

 

このブログでは基本的に有益なことは書かず、しかし軽佻浮薄に何かを書き綴って行きたいと思う。

 

ひとひらの羽毛でもその軽さに価値があることがある。

 

重厚で大きいものが常に必要とされるわけでもないように、僕の無駄な文もときに意味を持つと信じたい。一見無駄なものに多くを注ぐ、それが生きるという営みに近いと思うということは、僕の人生は軽いという意味だと思う。

 

昔、学生のころ、さる雑誌で「g(グラム)で量れる人生もある」という名前のコラムがあった。

 

中身は何ひとつ覚えていないものの、そのタイトルを見るたびに含蓄を感じていたところを見ると、僕の人生の重みはまあその程度になるとそのときから予感していたのかも知れない。

 

とは言え、繰り返しになるかも知れないけれど、軽いものにも軽いなりの役割と矜持がある。

 

このブログを通して、それらを見出すことができれば幸いだと思う。